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kissakurage
Posted at 2011.09.26 Category : 雑記
数ヶ月前にゴミ袋5袋分ほどの服を捨てた。それはかなりの爽快感を伴う行為であり、その余韻は今もなお心の隅にひそかに残留していた。
そのときに捨てきれなかった服は、実はまだ残っている。どういう服かと言えばブランド物であったり、オークションなどで値が付きそうな服だ。そうしたものをすべて売り払ってすっきりしてしまおうと、洋服を収納しているケースの中を漁った。どの服がどれくらいの値になりそうかを考えながら物色したが、どうもよく考えてみると、大した値が付きそうなものは少なかった。
たとえばLEEのブーツカットデニム。色もまだ濃く残っているが、裾が切りっぱなしになっている。昔、何を思ったか自らハサミで切ってしまったのである。とはいえまあそれなりに雰囲気はあり悪くない。切りすぎて股下が短いわけでもない。しかしたったそれだけのためにオークションでの値はずいぶん下がるだろうと考えられた。1000円以下かもしれない――そう考えると、途端に出品などの労力をかけるのが馬鹿らしく思えてきた。
そこで僕は、1000円以下と思える服は、思い切って捨てることにした。そうすると、売ろうと考えていた服のうち半分ほどを捨てることになった。そしてまた、不要な服が詰まったゴミ袋が1袋生産されたわけである。
そのときに捨てきれなかった服は、実はまだ残っている。どういう服かと言えばブランド物であったり、オークションなどで値が付きそうな服だ。そうしたものをすべて売り払ってすっきりしてしまおうと、洋服を収納しているケースの中を漁った。どの服がどれくらいの値になりそうかを考えながら物色したが、どうもよく考えてみると、大した値が付きそうなものは少なかった。
たとえばLEEのブーツカットデニム。色もまだ濃く残っているが、裾が切りっぱなしになっている。昔、何を思ったか自らハサミで切ってしまったのである。とはいえまあそれなりに雰囲気はあり悪くない。切りすぎて股下が短いわけでもない。しかしたったそれだけのためにオークションでの値はずいぶん下がるだろうと考えられた。1000円以下かもしれない――そう考えると、途端に出品などの労力をかけるのが馬鹿らしく思えてきた。
そこで僕は、1000円以下と思える服は、思い切って捨てることにした。そうすると、売ろうと考えていた服のうち半分ほどを捨てることになった。そしてまた、不要な服が詰まったゴミ袋が1袋生産されたわけである。
Posted at 2011.09.16 Category : 雑記
ひさびさにブログでも書いてみようと思い、家に帰ってビールを飲みながらキーボードを叩いている今。何のことを書こうか、とりあえず二郎のことでも書いてみようか。僕が二郎について文章を書こうというのは、初の試みである。
さて、僕はなぜこれまでに二郎のことを文章にしようとしなかったのか。語り得ぬのものについては沈黙すべきだから? 別にそこまでのことを考えたわけではない。ただ思いつかなかったのだ。二郎について語る、ということに。僕は驚いた、二郎を文章にする、という行為が存在することに。
「二郎はラーメンではない、二郎という食べ物だ」という言説を目にすることがある。その度に僕は、少し身体が痒くなるような感覚を覚える。本当に二郎が好きな人はそういうことを口にはしない。何だっていいのだ、ラーメンだろうが、何だろうが。二郎のことを面白おかしく語ろうなんてことは考えない。
そろそろ本題に入ろう。僕は、今日、関内のラーメン二郎を食べた。関内店は初めて訪れた場所であった。何しろ遠い。大学時代、横浜に住んでいた頃、二郎と出会っていなかった自分を責めたくもなる。しかし今更そんなことを責めても仕方がない。後悔をせずに過去を振り返るというのは、なかなか難しい。
そういえば横浜に住んでいた頃は、いわゆる横浜家系ラーメンを好んで食べていたように思う。しかし、それほど思い入れがあったわけではない。ただそこにあったから、食べていただけだ。そもそも僕は、ラーメンという食べ物がそこまで好きなわけではないのだ。どちらかと言えば、うどんの方が好きかもしれない。
では、うどんの話をするべきだろうか。いや、それはあまりに脱線がすぎる。しかしうどんについて語るという行為も、考えてみればこれまでに検討してみたことがない。うどんについて書いたことは、これまでに一度もない。たしかに魅力的な題材だ。では、やはり二郎について書くことをやめ、うどんについて書くべきだろうか。しかし、ここは初志貫徹としたい。二郎である。僕は二郎について語ろうとしているのだ。
さて、僕は関内の二郎を訪問した。近くで仕事の予定があったというのが、直接的な理由だ。僕は前日に、関内二郎で昼食を食べるという選択を思いつき、ささやかに興奮した。これまでに一度は行ってみたいと思いながらも、地理的な問題から、訪問が叶わなかった関内二郎。過去に一度行こうとしたことはあった。とある休日、横浜で友人と会う約束があった僕は、横浜にまで足を伸ばした。約束の時間は夜、それまでにはずいぶん時間があったので、別の友人に声をかけ、「関内の二郎に行こう」と誘った。にべもなく断られた。
結局その日は、何を食べたのだっけか。そう、「浜虎」という、横浜駅鶴見町に居を構えるラーメン屋である。僕のわりと好きな店で、昔は何度も足を運んだものだった。店はソープランドの隣にあり、店員が全員キャップとツナギを着ているという、どこかいけ好かない店ではあった。だが肝心の味は悪くはなく、そのためにもやもやした思いを抱えながら麺をすすったものだった。
しかし、僕が食べたかったのは二郎である。ラーメン二郎、関内店に行きたかったのだ。その日もやはり、僕は大層もやもやした。
ところでこれから僕は夜行バスで山形に行く予定があるので、いったんこの文章はここで切り上げる。また気が向いたら、続きを書きたい。
さて、僕はなぜこれまでに二郎のことを文章にしようとしなかったのか。語り得ぬのものについては沈黙すべきだから? 別にそこまでのことを考えたわけではない。ただ思いつかなかったのだ。二郎について語る、ということに。僕は驚いた、二郎を文章にする、という行為が存在することに。
「二郎はラーメンではない、二郎という食べ物だ」という言説を目にすることがある。その度に僕は、少し身体が痒くなるような感覚を覚える。本当に二郎が好きな人はそういうことを口にはしない。何だっていいのだ、ラーメンだろうが、何だろうが。二郎のことを面白おかしく語ろうなんてことは考えない。
そろそろ本題に入ろう。僕は、今日、関内のラーメン二郎を食べた。関内店は初めて訪れた場所であった。何しろ遠い。大学時代、横浜に住んでいた頃、二郎と出会っていなかった自分を責めたくもなる。しかし今更そんなことを責めても仕方がない。後悔をせずに過去を振り返るというのは、なかなか難しい。
そういえば横浜に住んでいた頃は、いわゆる横浜家系ラーメンを好んで食べていたように思う。しかし、それほど思い入れがあったわけではない。ただそこにあったから、食べていただけだ。そもそも僕は、ラーメンという食べ物がそこまで好きなわけではないのだ。どちらかと言えば、うどんの方が好きかもしれない。
では、うどんの話をするべきだろうか。いや、それはあまりに脱線がすぎる。しかしうどんについて語るという行為も、考えてみればこれまでに検討してみたことがない。うどんについて書いたことは、これまでに一度もない。たしかに魅力的な題材だ。では、やはり二郎について書くことをやめ、うどんについて書くべきだろうか。しかし、ここは初志貫徹としたい。二郎である。僕は二郎について語ろうとしているのだ。
さて、僕は関内の二郎を訪問した。近くで仕事の予定があったというのが、直接的な理由だ。僕は前日に、関内二郎で昼食を食べるという選択を思いつき、ささやかに興奮した。これまでに一度は行ってみたいと思いながらも、地理的な問題から、訪問が叶わなかった関内二郎。過去に一度行こうとしたことはあった。とある休日、横浜で友人と会う約束があった僕は、横浜にまで足を伸ばした。約束の時間は夜、それまでにはずいぶん時間があったので、別の友人に声をかけ、「関内の二郎に行こう」と誘った。にべもなく断られた。
結局その日は、何を食べたのだっけか。そう、「浜虎」という、横浜駅鶴見町に居を構えるラーメン屋である。僕のわりと好きな店で、昔は何度も足を運んだものだった。店はソープランドの隣にあり、店員が全員キャップとツナギを着ているという、どこかいけ好かない店ではあった。だが肝心の味は悪くはなく、そのためにもやもやした思いを抱えながら麺をすすったものだった。
しかし、僕が食べたかったのは二郎である。ラーメン二郎、関内店に行きたかったのだ。その日もやはり、僕は大層もやもやした。
ところでこれから僕は夜行バスで山形に行く予定があるので、いったんこの文章はここで切り上げる。また気が向いたら、続きを書きたい。
Posted at 2011.05.01 Category : 雑記
ぼくはfacebookの登録自体はわりと早い。もともと、気になるサービスなどがあればまずは登録してみる性格なので、日本でぽつぽつと紹介され始めたあたりで登録を済ませている。だいたい3年くらい前だろうか。
ここ一年くらいの間にfacebookの日本での注目度はかなり高まった。そして、やはりというべきなのだろうけど、マーケティングにおいて盛んに使われ、個人の利用者も増え、mixiのような知人同士のコミュニケーションも盛んになりつつある。
しかしその一方でぼくは、facebookに対する興味を日に日に失いつつある。いろいろと理由は考えられるのだけど、簡単に言えばこういうことだ。
facebookには言論がない。
ぼくがインターネットに触れるのは、基本的には言葉に触れるためだ。ニュースや何らかの批評や思想などに触れるためにインターネットをしている。
今のところfacebookは、友人同士で「いいね!」と言い合ったり、企業がPRをする場所でしかないので、どうしてもぼくには興味が湧かない。
そもそも、ぼくには誰かとつながりたいという欲求があまりない。だからfacebookに興味が持てない理由を次のように言ってもいいのかもしれない。ぼくは本質的にコミュニティに興味がない。昔から団体行動が苦手だったり、一人で本を読んだり絵を描いたりしている子どもだったことも関係していると思う。
今後facebookが良い方向に発展してくればプロフィールページはネット上の履歴書みたいなものになると思うので、転職や仕事探しの際に役立つこともあるかもしれない。そう思ってアカウントは保持するつもりだ。だけどそれはビジネスのためであって、個人的な興味とはまったく別の話だ。
ここ一年くらいの間にfacebookの日本での注目度はかなり高まった。そして、やはりというべきなのだろうけど、マーケティングにおいて盛んに使われ、個人の利用者も増え、mixiのような知人同士のコミュニケーションも盛んになりつつある。
しかしその一方でぼくは、facebookに対する興味を日に日に失いつつある。いろいろと理由は考えられるのだけど、簡単に言えばこういうことだ。
facebookには言論がない。
ぼくがインターネットに触れるのは、基本的には言葉に触れるためだ。ニュースや何らかの批評や思想などに触れるためにインターネットをしている。
今のところfacebookは、友人同士で「いいね!」と言い合ったり、企業がPRをする場所でしかないので、どうしてもぼくには興味が湧かない。
そもそも、ぼくには誰かとつながりたいという欲求があまりない。だからfacebookに興味が持てない理由を次のように言ってもいいのかもしれない。ぼくは本質的にコミュニティに興味がない。昔から団体行動が苦手だったり、一人で本を読んだり絵を描いたりしている子どもだったことも関係していると思う。
今後facebookが良い方向に発展してくればプロフィールページはネット上の履歴書みたいなものになると思うので、転職や仕事探しの際に役立つこともあるかもしれない。そう思ってアカウントは保持するつもりだ。だけどそれはビジネスのためであって、個人的な興味とはまったく別の話だ。
Posted at 2011.04.29 Category : 本
先日行った「スプートニクの恋人」読書会のために作成した文章を掲載します。
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「スプートニクの恋人」におけるすみれの成長について
■すみれという人物について
女性。22歳。恋をしたことがない。作家を目指し小説を書いているが満足のいくものを書き上げたことはない。社会性に乏しい。働いていない。服装にはこだわらず、いつも同じツイードのジャケットを着ている。父親は医者であり、息を飲むほどの美男子。
すみれと「ぼく」は親密な関係にあるが、恋愛関係ではない。
■なぜすみれは深夜に電話をかけるのか
”ぼくになんとか理解できたのは、あたりがまだ真っ暗で、それはかつてスコット・フィッツジェラルドが「魂の暗闇」と呼んだ時刻に近いらしい、ということくらいだった。”
”「話があれば明るいうちにかければいい」「昼間じゃだめなのよ。あなたはなんにもわかっていないのね」”(P81)
すみれが「ぼく」に電話をかけるのは大抵夜のことだった。すみれは、電話をかける時間は昼間ではいけないと考えている。昼間というのは現実の世界、つまり「こちら側」の世界のことである。
すみれは「魂の暗闇」とも呼ばれる時間、夜明けに近い時刻に「ぼく」に電話をする。それは夜から昼に変わる境界の時間である。つまり、「こちら側」と「あちら側」の境界の時間帯と言うことができる。
■すみれに小説が書けない理由
ミュウと会う前のすみれは小説を書こうとしていた。しかし、思うように小説を書き上げることができなかった。
”「わたしにはもともと何かが欠けているのかもしれない。小説家になるために持っていなくちゃいけない、何かすごく大事なものが。」”(P25)
”「物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」「そして温かい血が流されなくてはならない」”(P26)
すみれは、自分自身にの中にある欠落の存在を感じている。だが、それが何なのかはわからない。すみれは、それが自分が小説を書けない理由であると考えている。
「ぼく」の言葉で言えば、すみれには「呪術的な洗礼」が欠けている。つまり、象徴的な意味合いにおいて「暖かい血」を流すということ。
■ミュウと出会い、すみれは急速に成長する
すみれはミュウと出会い、恋をし、現実の世界に触れ、多少の社会性を身につける。化粧をし、綺麗な洋服を着るようになる。
ある日、「ぼく」は昼間の午後にすみれと会う。すみれは、それまでのすみれではなくなりつつある。
”彼女はほとんどありのままの姿を世界にさらしていた。でもどういうわけか、すみれの姿が最初うまく見分けられなかった。”
”「最近の君は、顔をあわせるたびに見分けるのが難しくなる」”
すみれはミュウと出会ってから小説を書いていない。生活の変化や、小説を書かなくなったことについて「ぼく」とすみれは語り合う。そして「ぼく」はフィクションについての話をする。
”「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている。もちろんぼくだって同じだ。(略)それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外からやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れやすく変換していく。そうすることにとって傷つきやすい生身の身体をまもっている」”(P97)
■夜中の長電話=手紙を書くこと、それらの行為の持つ効用
”それでふと今気がついたのだけど、あなたにこうして手紙を書いているうちに、最初に言った「ばらばらになったような変な気持ち」はいくぶんか薄らいできたみたいです。もうそれほど気にならなくなってきた。ちょうどあなたに夜中の長電話をし終えて、電話ボックスを出るときのような気分です。あなたにはひょっとして、そういう現実的効用みたいなのがあるのかしら?”(P116)
すみれはミュウと一緒にヨーロッパに旅立ち、旅先から「ぼく」に手紙を書く。すみれは手紙を書くという行為に「夜中の長電話」と似たものを感じている。
それは「ぼく」がすみれに対して語った、フィクションの効用とも似ている。外からの力の作用を緩衝する役割を果たしている。
「ぼく」に夜中に長電話をすること、手紙を書くこと、それはすみれにとって、自分のフィクションを持つことと同じ役割を持っている
■ギリシャという土地の機能
すみれとミュウはギリシャに滞在した。物語内において、ギリシャとはどのような意味合いを持つ場所なのか。
”わたしは世界の端っこにいて、そこに静かに腰かけていて、誰にもわたしの姿は見えない。(略)ここにある生活はいっときの幻想にすぎないし、いつかは現実がわたしたちを捕まえにやってくる。そしてわたしたちはもとの世界に戻らなくてはならない。”(P154)
物語内では、ギリシャは「こちら側」の現実とは異なる場所としての機能を持っている。すみれ自身、いつまでもここにいるわけにはいかないと感じている。
つまり、ギリシャは一種のフィクションの世界。比喩的な意味合いにおいては世界の果て。さらに延長して考えれば「あちら側」へ渡るための基礎を備えた土地であると言える。
■「あちら側」に渡り、「こちら側」に帰ってきたすみれ
すみれは「あちら側」の世界から帰ってきて「ぼく」に電話をかける。交わされる会話は、かつてと同じように親密なものである。
そしてふたりはお互いの必要性を確認しあう。
”「あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの。惑星が気をきかせてずらっと一列に並んでくれたみたいにすらすらと理解できたの。わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。ねえ、わたしはどこかで――どこかわけのわからないところで――何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門を作るときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できてる?」”(p316)
すみれがどこに行き、何をしていたのかは具体的には示されない。しかし、象徴的な意味合いにおいて、何かの喉を切り、温かい血を流したに違いない。
それはかつてのすみれに欠けていたことでもあった。おそらく、すみれは欠落を埋めることに成功したのだ。
■すみれの成長についてのまとめ
以前のすみれは現実から距離を置き、自分の世界を頑なに守り、それを侵されることを拒んでいた。言わば、すみれは本来経験すべき成長を後回しにしながら生きてきた。それがすみれの欠落でもあった。
すみれにはそのツケを払う必要があった。それは、ミュウという年上の女性への恋というかたちで実現された。ミュウとの恋愛を通じ、すみれはそれまでの自分を変える必要に迫られた。
その急激な変化に、すみれはついていくことができなかった。外見を変えることは簡単でも、内面の変化は難しい。これまで後回しにしてきた「成長」は一般的なやり方では取り戻すことのできないものだった。だからすみれは「あちら側」の世界で、象徴的に「自前の犬」の喉を切り、血を流さねばならなかった。それは自分自身のものとして痛みを受容することでもあった。そして、様々な条件が揃った時点において、すみれは「あちら側」に渡る。
最終的には、すみれは「あちら側」で何かしらのかたちで欠落を埋め、「こちら側」の世界に帰ってきた。すみれが無事に「こちら側」に帰ってきたということは、成長を果たしたということでもある。
そしてすみれは「ぼく」の必要性を強く確信する。昔のすみれには恋愛ができなかったが、帰ってきたすみれは成長したすみれである。おそらく、成長したすみれには人を愛することができるはずである。きっと、その相手は「ぼく」を置いて他にはいない。
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「スプートニクの恋人」におけるすみれの成長について
■すみれという人物について
女性。22歳。恋をしたことがない。作家を目指し小説を書いているが満足のいくものを書き上げたことはない。社会性に乏しい。働いていない。服装にはこだわらず、いつも同じツイードのジャケットを着ている。父親は医者であり、息を飲むほどの美男子。
すみれと「ぼく」は親密な関係にあるが、恋愛関係ではない。
■なぜすみれは深夜に電話をかけるのか
”ぼくになんとか理解できたのは、あたりがまだ真っ暗で、それはかつてスコット・フィッツジェラルドが「魂の暗闇」と呼んだ時刻に近いらしい、ということくらいだった。”
”「話があれば明るいうちにかければいい」「昼間じゃだめなのよ。あなたはなんにもわかっていないのね」”(P81)
すみれが「ぼく」に電話をかけるのは大抵夜のことだった。すみれは、電話をかける時間は昼間ではいけないと考えている。昼間というのは現実の世界、つまり「こちら側」の世界のことである。
すみれは「魂の暗闇」とも呼ばれる時間、夜明けに近い時刻に「ぼく」に電話をする。それは夜から昼に変わる境界の時間である。つまり、「こちら側」と「あちら側」の境界の時間帯と言うことができる。
■すみれに小説が書けない理由
ミュウと会う前のすみれは小説を書こうとしていた。しかし、思うように小説を書き上げることができなかった。
”「わたしにはもともと何かが欠けているのかもしれない。小説家になるために持っていなくちゃいけない、何かすごく大事なものが。」”(P25)
”「物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」「そして温かい血が流されなくてはならない」”(P26)
すみれは、自分自身にの中にある欠落の存在を感じている。だが、それが何なのかはわからない。すみれは、それが自分が小説を書けない理由であると考えている。
「ぼく」の言葉で言えば、すみれには「呪術的な洗礼」が欠けている。つまり、象徴的な意味合いにおいて「暖かい血」を流すということ。
■ミュウと出会い、すみれは急速に成長する
すみれはミュウと出会い、恋をし、現実の世界に触れ、多少の社会性を身につける。化粧をし、綺麗な洋服を着るようになる。
ある日、「ぼく」は昼間の午後にすみれと会う。すみれは、それまでのすみれではなくなりつつある。
”彼女はほとんどありのままの姿を世界にさらしていた。でもどういうわけか、すみれの姿が最初うまく見分けられなかった。”
”「最近の君は、顔をあわせるたびに見分けるのが難しくなる」”
すみれはミュウと出会ってから小説を書いていない。生活の変化や、小説を書かなくなったことについて「ぼく」とすみれは語り合う。そして「ぼく」はフィクションについての話をする。
”「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている。もちろんぼくだって同じだ。(略)それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外からやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れやすく変換していく。そうすることにとって傷つきやすい生身の身体をまもっている」”(P97)
■夜中の長電話=手紙を書くこと、それらの行為の持つ効用
”それでふと今気がついたのだけど、あなたにこうして手紙を書いているうちに、最初に言った「ばらばらになったような変な気持ち」はいくぶんか薄らいできたみたいです。もうそれほど気にならなくなってきた。ちょうどあなたに夜中の長電話をし終えて、電話ボックスを出るときのような気分です。あなたにはひょっとして、そういう現実的効用みたいなのがあるのかしら?”(P116)
すみれはミュウと一緒にヨーロッパに旅立ち、旅先から「ぼく」に手紙を書く。すみれは手紙を書くという行為に「夜中の長電話」と似たものを感じている。
それは「ぼく」がすみれに対して語った、フィクションの効用とも似ている。外からの力の作用を緩衝する役割を果たしている。
「ぼく」に夜中に長電話をすること、手紙を書くこと、それはすみれにとって、自分のフィクションを持つことと同じ役割を持っている
■ギリシャという土地の機能
すみれとミュウはギリシャに滞在した。物語内において、ギリシャとはどのような意味合いを持つ場所なのか。
”わたしは世界の端っこにいて、そこに静かに腰かけていて、誰にもわたしの姿は見えない。(略)ここにある生活はいっときの幻想にすぎないし、いつかは現実がわたしたちを捕まえにやってくる。そしてわたしたちはもとの世界に戻らなくてはならない。”(P154)
物語内では、ギリシャは「こちら側」の現実とは異なる場所としての機能を持っている。すみれ自身、いつまでもここにいるわけにはいかないと感じている。
つまり、ギリシャは一種のフィクションの世界。比喩的な意味合いにおいては世界の果て。さらに延長して考えれば「あちら側」へ渡るための基礎を備えた土地であると言える。
■「あちら側」に渡り、「こちら側」に帰ってきたすみれ
すみれは「あちら側」の世界から帰ってきて「ぼく」に電話をかける。交わされる会話は、かつてと同じように親密なものである。
そしてふたりはお互いの必要性を確認しあう。
”「あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの。惑星が気をきかせてずらっと一列に並んでくれたみたいにすらすらと理解できたの。わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。ねえ、わたしはどこかで――どこかわけのわからないところで――何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門を作るときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できてる?」”(p316)
すみれがどこに行き、何をしていたのかは具体的には示されない。しかし、象徴的な意味合いにおいて、何かの喉を切り、温かい血を流したに違いない。
それはかつてのすみれに欠けていたことでもあった。おそらく、すみれは欠落を埋めることに成功したのだ。
■すみれの成長についてのまとめ
以前のすみれは現実から距離を置き、自分の世界を頑なに守り、それを侵されることを拒んでいた。言わば、すみれは本来経験すべき成長を後回しにしながら生きてきた。それがすみれの欠落でもあった。
すみれにはそのツケを払う必要があった。それは、ミュウという年上の女性への恋というかたちで実現された。ミュウとの恋愛を通じ、すみれはそれまでの自分を変える必要に迫られた。
その急激な変化に、すみれはついていくことができなかった。外見を変えることは簡単でも、内面の変化は難しい。これまで後回しにしてきた「成長」は一般的なやり方では取り戻すことのできないものだった。だからすみれは「あちら側」の世界で、象徴的に「自前の犬」の喉を切り、血を流さねばならなかった。それは自分自身のものとして痛みを受容することでもあった。そして、様々な条件が揃った時点において、すみれは「あちら側」に渡る。
最終的には、すみれは「あちら側」で何かしらのかたちで欠落を埋め、「こちら側」の世界に帰ってきた。すみれが無事に「こちら側」に帰ってきたということは、成長を果たしたということでもある。
そしてすみれは「ぼく」の必要性を強く確信する。昔のすみれには恋愛ができなかったが、帰ってきたすみれは成長したすみれである。おそらく、成長したすみれには人を愛することができるはずである。きっと、その相手は「ぼく」を置いて他にはいない。
Posted at 2011.04.13 Category : 雑記
仕事が決まりそうな気配ではあるのだけど、今この時期に東京で就職するというのが正しい判断なのかどうか悩ましい。原発の被害はレベル7となり、夏以降の電気状況も不透明。その中で菅総理は浜岡原発をはじめとした原発を止めず、これからも継続する姿勢を明確にした。
一方、先日の都知事選では石原慎太郎の継続が決まった。原発推進派であり、震災を天罰だと言った、石原慎太郎が再び選ばれた。もちろん、他でもない都民によって選ばれた。そのとき、ぼくは強い無力感に襲われた。高円寺の原発反対デモは、選挙よりもデモの方を重視するという馬鹿げたことをしていたし、同年代の友人は選挙には無関心で原発も容認していた。まともな人間がひとりもいないような気さえした。
さまざまなニュースを見ては、ぼくは絶望する。国も東京も東京電力も、人々のことをまるで考えていない。もともとそうした諦観は持っていたが、それはさらに強まった。急速に、かつ劇的に。日本という国に対して、ぼくの中にあるのは強い不信感だ。
なんなんだろうこの世界は、とぼくは思う。地震は現実の大地を揺らすだけでなく、比喩的な意味合いにおいても、ぼくたちの「日常」を大きく揺るがした。それはぼくたちが足をつけて暮らしている「日常」のことだ。もはやカギ括弧つきで語らなければならない。
今、状況を悲観しすぎてもいけないし、楽観しすぎてもいけない。パニックに陥るのは最悪だ。非常時には冷静でなければならない。それはとても難しいことだ。しかしそのバランスを取ることを諦めてはいけない。ぐらぐらとバランスを崩しながらも、冷静に物事を見つめなければいけない時期だ。
国自体がもう駄目なのだからどこに行っても根本的には変わらないのだが、少なくとも東京は離れるべきではないのかと考えている。ぼくは今無職だ。仕事があるから東京を離れられないということもない。悩みながらも、もうすぐ保険が切れることもあり、急ぎ足で仕事を探している。しかし、今から東京で働き始めようというのはひどく間違った選択ではないのだろうか。
なんだかんだでぼくは根本的に楽観的だった。今が最悪で、これから何とかなるだろうと考えていた。だからぼくは結局のところ、東京で働くことを選ぶつもりだった。しかし、もはやそんな悠長なことを言っている場合ではないのかもしれない。
昨日のニコニコ生放送で、東浩紀は打ちひしがれていた。東浩紀も国を信じられなくなり、言論の無力さを痛感し、日常の崩壊を感じていた。日本が抱える諸問題は解決されないまま、予定していたよりも早く顕出し始めるだろう。ぼくも、ひょっとしたら東浩紀ほどではないかもしれないけれど、自分なりに打ちひしがれている。
それでもタフでクールであらねばならない。前を向いて生きなければならない。前を向いて生きるということがどういうことなのかをぼくは考え続けている。
一方、先日の都知事選では石原慎太郎の継続が決まった。原発推進派であり、震災を天罰だと言った、石原慎太郎が再び選ばれた。もちろん、他でもない都民によって選ばれた。そのとき、ぼくは強い無力感に襲われた。高円寺の原発反対デモは、選挙よりもデモの方を重視するという馬鹿げたことをしていたし、同年代の友人は選挙には無関心で原発も容認していた。まともな人間がひとりもいないような気さえした。
さまざまなニュースを見ては、ぼくは絶望する。国も東京も東京電力も、人々のことをまるで考えていない。もともとそうした諦観は持っていたが、それはさらに強まった。急速に、かつ劇的に。日本という国に対して、ぼくの中にあるのは強い不信感だ。
なんなんだろうこの世界は、とぼくは思う。地震は現実の大地を揺らすだけでなく、比喩的な意味合いにおいても、ぼくたちの「日常」を大きく揺るがした。それはぼくたちが足をつけて暮らしている「日常」のことだ。もはやカギ括弧つきで語らなければならない。
今、状況を悲観しすぎてもいけないし、楽観しすぎてもいけない。パニックに陥るのは最悪だ。非常時には冷静でなければならない。それはとても難しいことだ。しかしそのバランスを取ることを諦めてはいけない。ぐらぐらとバランスを崩しながらも、冷静に物事を見つめなければいけない時期だ。
国自体がもう駄目なのだからどこに行っても根本的には変わらないのだが、少なくとも東京は離れるべきではないのかと考えている。ぼくは今無職だ。仕事があるから東京を離れられないということもない。悩みながらも、もうすぐ保険が切れることもあり、急ぎ足で仕事を探している。しかし、今から東京で働き始めようというのはひどく間違った選択ではないのだろうか。
なんだかんだでぼくは根本的に楽観的だった。今が最悪で、これから何とかなるだろうと考えていた。だからぼくは結局のところ、東京で働くことを選ぶつもりだった。しかし、もはやそんな悠長なことを言っている場合ではないのかもしれない。
昨日のニコニコ生放送で、東浩紀は打ちひしがれていた。東浩紀も国を信じられなくなり、言論の無力さを痛感し、日常の崩壊を感じていた。日本が抱える諸問題は解決されないまま、予定していたよりも早く顕出し始めるだろう。ぼくも、ひょっとしたら東浩紀ほどではないかもしれないけれど、自分なりに打ちひしがれている。
それでもタフでクールであらねばならない。前を向いて生きなければならない。前を向いて生きるということがどういうことなのかをぼくは考え続けている。